私の住む前橋市は、1945年(昭和20年)8月5日の空襲で大きな被害を受けました。この日、生き残った人たちの中に、東京から疎開していた七代目松本幸四郎がいました。
今回は、その七代目が前橋市で演じた橋弁慶を、80年ぶりにここ前橋の地で「松本幸四郎」が披露したお話です。
1 疎開していた七代目松本幸四郎一家
2 戦災前橋復興舞踊大会
3 80年ぶりの「松本幸四郎」
1疎開していた七代目松本幸四郎一家
七代目松本幸四郎(1870-1949)は、1945年(昭和20年)5月に、家族7人で前橋市に疎開してきました。当時のアメリカ軍のマリヤナ時報といわれる伝単(戦争相手国の言語で書かれた「空襲予告ビラ」)などから、前橋空襲の危機があったため、さらに7月下旬に四万温泉に移転していました。
そして、8月5日、前橋市にはアメリカ軍のB-29が92機飛来し、焼夷弾・通常爆弾等724トンが22時40分頃から約90分にわたって投下されました。目標とされた中央通りの爆撃照準点から半径1.2キロ園内の約8割が焼失し、600人近くが亡くなりました。
以下の昭和館デジタルアーカイブの写真のキャプションには「このキリスト教教会はまだ倒れずに立っているが、前橋の町のその他の建物は昭和20年8月5日の空襲によって全て倒壊した。」(撮影:1945年10月10日)とあります。
参照:昭和館デジタルアーカイブ↓
でも、周囲の町村からは炊き出しの握り飯がすぐさま運び込まれ、戦災翌日から市民は焼けたトタンで掘っ立て小屋を建て、復興を始めました。
2 戦災前橋復興舞踊大会
終戦後の9月に、東京に戻った松本幸四郎は「命が助かったのは、前橋の疎開のおかげ。自分の芸を通じて市民を元気づけ、市の復興に協力させてほしい。」と、10月の戦災前橋復興舞踊大会の出演を申し入れました。
市民には無料入場券が配布され、仮設舞台を設けた前橋公園の入場口には行列ができました。そして、3日にわたる舞踊大会で、披露されたのは松本幸四郎のお得意の勧進帳「橋弁慶」です。音楽と長唄を担当したのは、前橋の芸妓衆でした。
「前橋空襲と復興資料館」では、その当時の様子を撮影したアメリカ陸軍のフィルムが公開されています。会場の前橋公園の周囲の土手まで、観客が鈴なりです。 前橋公園から、焼け野原に残った写真のキリスト教協会は、900mほどです。この会場の外では、復興に追われバラック暮らしだった人も多かったでしょうが、誰もが娯楽に飢えていたことが伝わります。踊りで勇気づけられ、感動し、明日の活力を得ていたのでしょう。
公演後の松本幸四郎に、主催者がお礼を渡しに行くと、「一日も早く前橋が復興することを祈ります。」と、涙を浮かべて答え、出演料は受け取らなかったといいます。
3 80年ぶりの「松本幸四郎」
さて、2025年(令和7年7月27日、前橋で80年ぶりの「松本幸四郎」の橋弁慶を見る機会に恵まれました。弁慶を十代目松本幸四郎(七代目の曾孫)、牛若丸を十代目の長男で八代目市川染五郎が演じました。この親子共演による橋弁慶は、実は初演だとのこと。
今回弁慶を演じた十代目松本幸四郎は、「曾祖父、祖父、父が演じてきた先人の弁慶をお見せしたい。私の弁慶を観て、先人の弁慶を観ることができる、そういう気持ちで務めたい。」
と語っていました。
歌舞伎で観る弁慶は、勇壮でいて本当に美しいです。ラストの牛若丸が弁慶の肩越しに立ち、決めるシーンでは、七代目松本幸四郎の前橋への想いが、今に降臨したようで、熱いものがこみ上げてきました。
80年前の前橋公園の鈴なりの観客の皆さんと、感動を共有したような気持ちがしました。
参考>
前橋新聞~mebuku~
前橋市ウェブサイト>前橋空襲と復興資料館
=プロフィール=
プラン行政書士事務所 代表行政書士 中西浩子
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